雨のち晴れ2

小児白血病と歩んできた一人の少年の物語

このスペシャルサイトは、青春真っ只中の1人の少年が、小児白血病を発症し完治までの経緯をコラムに致しました。今現在、闘病中の患者様・ご家族の皆様に、この病気に立ち向かった1人の少年の気持ち・思いが、皆様の勇気と希望に繋がればと願っております。

大原薬品も2011年11月25日、白血病治療薬「エルウィニア L-アスパラギナーゼ」の治験届を提出し本格的な開発がスタート致しました。

現在困られておられる患者さんのために、一刻も早く承認されるよう今後も鋭意努力致します。

Story1 第二のスタートライン

1.自宅

今、僕は長い入院生活から開放されて、やっと自分の家にいる!!

これからも週に一度は通院し診察を受けなければならない。そして、何種類あるのかわからないほどたくさん薬も飲まなくてはならない。でも、開放感のほうが勝っていた。いや、むしろ“解放感”と表現した方が良いだろうか。心の中が何とも言えない感覚で満たされていた。

今日から家で寝て起きて食事ができる、自分の生活が戻ってきた!入院中ずっと思い焦がれていたこと、それは、親友と遊びたい!自宅で心おきなくゲームがしたい!ということだった。そしてお礼が言いたかった。家族への想いももちろんだが、僕にとって親友の存在はとてもとても大きかった。感謝しきれないほどだ。さすがに退院初日に遊ぶのは気持ちが先走りすぎなので、親友とは後日連絡をとり、満足いくまで遊ぶことができた。

入院中、退院したらいろいろなことをやろうと心に決めていたが、ほとんどが僕の今の状態ではまだまだ難しいということが分かった。

そして家族にも変化があった。父がとある事情により一緒に暮らすことができず、別の場所で暮らしていたのだ。いつからだかそうなっていたらしい。詳しいことは聞かずにおこう…。

2.針

退院してから一週間が経ち通院の日が来た。僕はこの一週間の間にちょこっとの勉強と、たくさんのゲームをやりながら過ごした。充実感はまあまあ…。実は病院を離れてから、長い間過ごしていた病院を恋しく思うようになっていた。それは病院には仲間がいるからだった。普通の生活に戻れるのは僕が一番願っていたことだ。でもそれには入院中に止まってしまった時計の針を再び動かさなければならない。僕の時計はまだ動いていない。

動かそうと思っても動いてくれない。一人取り残された気分だ。止まっていた針を動かすのがとても難しく感じる。そのせいか通院が楽しみに思えてきた。ちょっとした外出気分だ。僕は歩くことができないので母に付き添ってもらい、車椅子とタクシーを利用して病院へと向かった。

病院に到着しタクシーから降りる。受付を済ませたときには僕はすでに疲れてグッタリしている。それだけのことでも体力のない僕には呼吸も苦しくなってくる。先生の診察を受ける前に血液検査を済ませるため、採血ルームで採血をしてもらう。入院中は 「IVH」という中心静脈にカテーテルを入れていたので、そこから血液採取をすることができた。今は退院しているのでカテーテルも取り外されている。残念なことに僕は、血管が細い体質なので採血のための針が刺さりにくい。1日で25回位やり直したこともある。とても難しい僕の血管にいろいろな人が挑戦していく中、しまいには神業的な技術を持った看護師が針を刺しにきた。何とそんなベテラン看護師でも僕の血管は手ごわかったらしい。

3.拒絶反応

採血もなんとか無事に終わり、診察室の前で待った。血液検査の結果が出たころに診察室に呼ばれた。聴診器で胸の音を聞いてもらい一通りの診察を終えた。

先生からは、「退院して一週間しか経っていないので変化はあまりないが、骨髄移植によるものであろう拒絶反応が肝臓にでているから無理しないように」と言われた。拒絶反応や移植手術の爪痕は深く、肝臓を含む内臓の状態や外見も普通の人とは違う。皮膚はヒョウ柄の様なまだら模様になっていて見た目が良いとは言えない。聞くと、放射線を浴びたところに色素が沈着しているそうだ。白い肌に黒いシミがはっきりとわかるくらいに目立つ。

まぁ、僕は全く見た目を気にしていないのでそれは平気だったが、身体の内部の拒絶反応は想像以上に強いものであった。血液検査の数値に正常値を遥かに超えた数字が並んでいた。特に肝臓の状態が悪く、目の白い部分が黄色くなる黄疸という症状が現れていた。肝臓が悪いと疲れやすく眠たくなる。おまけに何もやる気が起きなくなる。肺、肝臓、腎臓、あらゆる臓器がダメージを負っている。

僕の身体のすべてが大きな代償を払いつつ、僕の命をつなぎとめようとしてくれている。

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Story2 第二のスタートライン その後

1.当たり前のことができないもどかしさ

退院してから後遺症に苦しんでいた。体が思うように動かない。ほんの少し動いただけで呼吸が荒くなりめまいがする。骨髄移植による拒絶反応を抑制するために朝と夜、同じ時間に免疫抑制剤という薬を飲むことになっている。その他にもいろいろな薬を飲んだ。

体が思うように動かせないというのは本当にもどかしい。自分の部屋から台所まで歩いて冷蔵庫から飲み物をとる。そんな当たり前のようなことができない。だから、家の中ではほとんど座って過ごしている。それでも、毎日ではないが少しでも自分でできることはしようと考えた。飲み物をコップに注ぎ、飲み終えたらそのコップを自分で洗う。でも、それすらままならなかった。普通に出来て当たり前の世界が、右肺を失いやせ細った体ではとても難しかった。そんな自分が情けない。

2.学生生活の隔たり

時間は淡々と過ぎていった。僕は毎日、勉強とゲームの繰り返し。友達は高校に通って勉強をし、部活動に励み、友達同士で遊びに行ったり、恋をしたり、充実した毎日を過ごしているのだろう。それというのも、友達が僕のところに遊びに来てくれてはいろいろな話を聞かせてくれる。話題は学校で起こったことが主だった。クラスにとてもユニークな生徒がいて、その人がいつも先生に怒られていることや、同じクラスに好きな女子ができたこと、そして今、その人とどうなっているのかなど、他人からすれば何でもないような話ではあるが、僕にとってはすべてが新鮮で、これが外の世界と交信できる唯一の手段だった。仕方ないことはわかっている。病弱な体なのだから。でも、僕だって同じ高校生のはずなのにという気持ちもある。口には出さないが、自分がもし病気にかかっていなかったら、どんな高校生活を送っていただろうか、右肺がつぶれていなければなど、いろいろ考えてしまう。友達が見舞いに来てくれるのはありがたかったけど、その反面、友達が自分のいる位置からとても遠くにいるように感じ、ちょっぴり泣きたくなる。

ささやかな楽しみ

3.再入院

退院してからも体調は優れなかった。倦怠感があり、おまけにすごく眠い。近々、検査で病院に行くので、それまでは我慢することにした。

通院当日、診察を受けてわかった。肝臓に異常がみられるという。一度入院して点滴をする必要があると告げられた。僕はまた入院かとうんざりした反面、ちょっとうれしくもあった。入院していたときの友達とまた会える。病院内にある学校に行き、先生に直接勉強を教えてもらえる。そんなことを考えてしまった。

診察が終わり、さっそく入院の手続きを済ませた。病室に行くと慣れ親しんだ顔ぶれが僕を迎えてくれた。新しく入院してきた友達や、看護師さんもいた。入院の理由は肝臓の機能を回復させるためだ。点滴で体に水分をたくさん入れ、肝臓にたまった悪い不純物を流し出す。自宅でたくさん水を飲めばよさそうだが、それだけでは足りないという。いつも服用している飲み薬はそのまま続けた。

入院に際して、ふと思ったことがある。点滴のことだ。僕はすでに中心静脈に入れていた「IVH」というラインを抜いているので、普通に点滴針を腕に刺して点滴しなければならない。大手術で体が弱っているので、腕の血管が細くなっている。だから、点滴針が思うように刺せない。それが苦痛だった。でも、先生たちも苦労したに違いない。点滴をしながらで3週間ほどで退院することが出来た。その間、針の差し替えも数回。退院後はまた淡々とした日々が続くのかと思うと、もう少し入院しても良いかなと、不謹慎にもそう思ってしまった。

IVH (Intravenous Hyperalimentation):
中心静脈栄養法。大静脈(胸か首か鼠径)にカテーテル(管)を入れて高カロリー輸液で栄養補給する術式。管は20~60cm程度あり、出口は皮膚に縫い付ける。

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Story3 筋肉痛と共に

1.目標

入院したおかげで異常がみられた肝臓も落ち着き、やっと退院することができた。でも、本音を言うともう少し入院していたかった。ここにいれば授業も受けられるし、友達とも会える。病院内にも学校(病院内学級)がある。僕にとって学校は大きな存在だった。学校に通える、勉強できるという喜びをかみ締めることができるからだ。

僕は退院する前に、何気なく思ったことを担当医の先生に言った。「卒業旅行は沖縄に行きたい」と。僕はまだ車いすでの生活で、歩くのもままならない状態。先生は「病院内学級」※では卒業旅行はないと言った。そんなことはわかっている。病院内学級には、卒業旅行という学校行事はない。計画は僕が立て、後日、先生に話すことにした。再来年、卒業する前に、先生たちと沖縄旅行に行く。個人旅行にも思えるが僕にとっては卒業旅行と同じ意味を持つ。しかし、この計画が本当にできるかどうかは、僕自身が自分の足で歩けるようになることが大前提だ。それから、僕は計画を実行すべく、それまでにやることを考え、リストにしてみた。リストの項目は全部で1から10まである。リストを作ってみたはいいが、できるか不安である。だが、それは「高校卒業」と同じくらい僕の大きな目標となった。

※病気などを理由に学校に通えない生徒のために病院内などに設けられた教室

2.挑戦 初級

僕は、高校を卒業する前に卒業旅行という大きな目標ができ、退院してからリハビリプランを自分で考えた。それまでは、家で勉強してゲームして友達と話して、を繰り返す毎日だった。明日からは、リハビリプランを実行してみよう。

プラン実行初日、リストNo.1「日中はできる限り、家の中で立ったり座ったりすることを繰り返す」を実践してみる。次に、No.2「一人でお風呂に入る」。お風呂に入るとき、人の助けがないと入れなかった。しゃがんで立つ動作や、髪の毛を洗う動作も、筋肉が弱った僕の体では大変な作業なのだ。しかし、ここからスタートだ。その結果、初日から強烈な筋肉痛に襲われた。立ったり座ったりしただけなのに。

次の日も同じプランを達成しようと思っていたが、筋肉痛のせいでリハビリにも影響した。果たして大丈夫だろうか、不安だらけだった。

諦めずにリハビリを続けて3週間。毎日、リストNo.1、2を繰り返した甲斐があり、だいぶ一人でお風呂に入れるようになった。自分で髪の毛を洗えるようにもなった。まだ、長時間腕を上げることはできないが、自分の体を洗うこともできるようになった。湯船からも壁に捕まりながら立てるようになり、自分で体を(タオルで)拭けるようにもなった。そろそろ、リストNo.3へ移行してもよさそうだ。

自分を見て

3.挑戦 中級

少しずつではあるが、自分でできることが増えると気分がいい。次のステップ、No.3「家の中を歩き回る」を実践してみよう。とても変な光景だと思うが、5ⅿ以上歩くと息切れがして苦しくなる。筋力にも問題があるが、僕には右肺を失ったというハンデがあるためだ。とにかく悔しくて仕方ない。

このNo.3をおよそ1カ月続けた結果、家の中だけなら歩けるようになった。でも、完全に自由にというわけではない。まだまだリハビリが必要。しかし、リストNo.4の準備はできた。

次は「外で50ⅿ歩く」。現状ではすさまじい目標だった。家の中を歩き回るので精一杯。それを考えると外で50ⅿを歩くのは至難の業だった。初めての挑戦で、止まりながらではあるが何とか歩けた。だが、続けて歩くことはまだできない。それでも、このリハビリを続ければ絶対に歩けると、このとき確信した。

そして、リハビリを続けて3週間。すでに50ⅿは余裕で歩けるようになり、リストNo.5の「100ⅿ歩く」も達成した。自分でも驚くほど歩けるようになっていた。もちろん、一人でお風呂に入ることや自分の身の周りのことは、ほぼできるようになった。

これでリストの半分をクリアしたことになる。残りの半分を見て思った。まだまだ、これからだなぁ。リストNo.6はハードルが上がり、倍以上の「300m歩く」が目標だ。気が遠くなる。呼吸が乱れるのも必至だ。携帯用の酸素ボンベを準備して緊急時に備えなくてはならない。よし、次の日からまた挑戦だ。

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story4 僕の“普通”へのステップ

1.リハビリプラン上級編 その1

歩けるということは、なんと素晴らしいことかと改めて実感をしていた。約2か月半かけてリハビリプランNo.5まで達成した。ここからは“普通”に戻るためにリハビリを加速させていく予定だ。次は、家からの歩く距離を300メートルまで伸ばしたリハビリプランNo.6。

当然のことだが、初日は惨敗であった。たった300メートルがこれほど遠く感じたことはない。息はすぐ上がるし、足も悲鳴を上げている。最近、思ったことがあった。近所を歩いていると、周囲の視線がひどく冷たく感じる。これは少し前から感じていた。顔色の悪い、そして肌がまだら模様の青年が歩いている。“普通”には見えないのかもしれないが、それが寂しく思えた。とにかく頑張ろう。300メートル歩けるようになるまでには思っていた以上に時間がかかった。それには理由がある。リハビリに筋トレを追加したからだ。その筋トレが思いのほか大変で、歩くことができない日もあった。筋力と持久力。この両方がないと“普通”には戻れない。

結局、リハビリプランNo.6をクリアするのに4週間もかかった。リハビリプランを考えたのは自分だが、本当に残りのリハビリを達成できるのか、不安になった。次のリハビリプランNo.7の500メートルを歩くこと。その距離は自宅から最寄り駅までと同じ距離だ。300メートルを歩けるようになり、自信はついてきたが、さすがに最寄り駅まで歩くには…。

でも、少しずつではあるが、体力と筋力がついてきたのは実感していた。そして、500メートル歩くことは案外、楽にクリアできた。おそらく筋トレを続けたおかげだと思う。いよいよ、リハビリも仕上げに入ってきた。

病院へ引っ越し?

2.リハビリプラン上級編 その2

リハビリプランNo.8は、バスに乗って友達の家に一人で遊びに行くこと。今までは自宅の周囲でリハビリをしていたが、今度はバスに乗って遠出する。これさえできたら、先が見えてくる。友達に電話をして、遊びに行く約束をした。友達は迎えに来ると言ってくれたが、その申し出は断った。自分が訪れるまで自宅で待っていてほしいとお願いして、電話を切った。

最寄り駅のバス停まで歩いて行き、バスの到着を待った。ここまでは問題ない。あとはバスに乗って、友達の家に行くだけだ。バスを待っている間、ふと不安になった。自宅から友達の家までの距離を考えると、今の自分には負担は大きい。

バスに揺られながら、友達の家までの道のりをゆっくりと進んだ。そして、無事に友達の家までたどり着くことができた。意外とあっさり着いたので、自分でも拍子抜けした。これはもうリハビリプランNo.9を飛ばして、No.10に挑戦するしかない。最後の挑戦は、近所のプールで泳ぐことだ。

最後の挑戦を開始した。バスに乗ってプールに向かう。水着に着替える。プールサイドで準備運動をして、いざ水中へ。まずはプールで歩くことにした。歩き始めてから10分もしないうちに、息が上がり呼吸が乱れてきた。初日はどんなにがんばっても10分しか歩けなかった。がそれでも今までのリハビリより厳しかった。帰りはバスに乗るやいなやぐっすり眠ってしまった。

小学生

3.ここから

プールでのリハビリは想像を超えて厳しく、今の自分ではまだ泳ぐこともできなかった。まずは歩くことから慣れていこう。歩くだけでも肺にかかる負担は大きい。泳げるようになるまでには時間がかかりそうだ。

水中で歩ける時間を少しずつ伸ばしながら、プールでのリハビリを続けた。その甲斐あってか、30分間休まずに歩き続けられるようになった。これなら泳げる気がする。25メートルを一回で泳ぎ切ることを目標に、泳ぎ始めた。

もともと水泳は得意だった。だけど、いざ泳ぎ始めると、すぐに息が切れ、心拍数が上った。きつい。やはり、初日から25メートルは無理か。その日、何回かチャレンジしたが、やっぱり無理だ。悔しい。苦しい。でも、無理ではなさそうだ。これまで苦しいリハビリにも耐えてきた。学校にも病院にも一人で通えるようになった。もうひとがんばりだ。

水泳のリハビリは、僕にとって大きな一歩を与えてくれた。泳ぐことで、筋力がつき、肺活量も増えた。何より、生きる活力と希望が持てるようになった。水泳を初めてから数ヶ月、25メートルはもちろん、ゆっくりであれば50メートルも泳げるようになった。やっとすべてのリハビリを終えることができる。発病から4年。まだ19歳。僕の“普通”はここからだ。

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