雨のち晴れ

小児白血病と歩んできた一人の少年の物語

このスペシャルサイトは、青春真っ只中の1人の少年が、小児白血病を発症し完治までの経緯をコラムに致しました。今現在、闘病中の患者様・ご家族の皆様に、この病気に立ち向かった1人の少年の気持ち・思いが、皆様の勇気と希望に繋がればと願っております。

大原薬品も2011年11月25日、白血病治療薬「エルウィニア L-アスパラギナーゼ」の治験届を提出し本格的な開発がスタート致しました。

現在困られておられる患者さんのために、一刻も早く承認されるよう今後も鋭意努力致します。

Story1 病気の発覚

1.体調に異変-そして入院。

1997年、高校受験を控えた中学校3年生の冬休み。40度近くの高熱を出して寝込んだ。もうすぐお正月。
年明けには熱も引き、お正月に楽しみにしていたお年玉を両親や親戚からもらう。お正月によく見られる光景が、そこにはあった。

3学期が始まる頃、ふと、体調がおかしいことに気づいた。しかし、そんなことは今日だけだと思い、その時は気にもとめなかった。一週間くらいして、体調の異変を強く感じるようになった。体が重く、息切れもひどい。少しめまいもした。それでも学校には通い続け、頑張って授業も受けた。無理が重なったせいだろうか。そのうち保健室で休むことが増え、体調不良で早退するようにもなった。保健の先生は、僕を見て「精密検査を受けた方が良い」と言った。友達も何かと気づかってくれた。やがて、登校することすら辛くなった。両親も顔色がすぐれないことを心配して、僕を病院へ連れて行くことにした。

訪れた病院には何度か入院したことがある。小児科の先生とも顔見知りだ。その先生に診察してもらい、血液検査を受けた。ただの貧血だろうと自分では思い、検査が終わればすぐに帰れるだろうと。しかし、検査の結果、緊急輸血と入院が決まった。それでも、貧血が治ればすぐ退院できるだろうと信じていた。もちろん、高校入試も受けるつもりでいる。入院は、診察から2日後。この2日間で、僕は高校入試の願書を出した。

風邪と貧血には気をつけよう

2.来年こそは。

当日。「入院はひさしぶりだ」とのんきな事考ていた。病院の方たちと挨拶をしながら案内された病室に向かった。部屋は大部屋だった。他にも入院している人たちがたくさんいる。病室に入り、荷をほどいていると間もなく、両親が先生に呼び出された。僕の病気について話をするのだろう。20分ほどしてから自分も呼ばれた。部屋に入ると、両親は笑顔を浮かべているものの、室内の空気は重たかった。先生は僕に、病気の説明と今後の治療について説明を始めた。血液の病気であること。長期入院する必要があること。治療で使う薬の副作用で、髪の毛が抜けてしまうこと。しかし、病名は教えてくれなかった。

説明を聞かされている間、高校の受験日までに退院できるのだろうか。もし間に合わなかったとしても、どうにかして受験ができないものだろうか。尋ねてみると、先生はいくつか案を出してくれたが、なぜ受験が受けられないのか不思議だった。先生は、治療を始めると赤血球や白血球が減少し、感染の予防として隔離しなければならないというのが、理由らしい。だから治療の進行具合にもよっては無理かもしれないとも先生は言った。結局、治療は思ったよりも進まず、高校受験はあきらめざるをえなかった。中学の卒業式もタイミングが合わず出席できなかった。
4月から友達は高校生。自分は高校浪人。悔しいけど来年こそはがんばろうという思いだけが、唯一の望みだった。

恋の処方箋

3.生きていくということ。

そんなある日、感染予防のため、個室病棟に隔離された。薬の副作用で白血球の数が減り、免疫力が低下したからだ。また、便がきっかけで痔にもなってしまった。普通ならそのままにしていても治るようなものだが、菌に対する抵抗力が弱くなっていたため、ひどく炎症を起こしてしまい、40度近くまで発熱した。お尻に激痛が走る。寝返りをうつのも辛い。

入院してから6、7ヶ月経ったころだろうか。入院仲間も増え、暇だけど楽しみながら入院生活をしていた僕は、初めて人の死というものを体験した。同じ病気で苦しんでいたA君が他界したのだ。亡くなったA君は、弟のように接していた男の子で、元気で明るく、いつもこちらが元気をもらっていた。友達の死。入院しているからお通夜にも、お葬式にも行けず、ただただ悔しかった。その時、初めて感じた違和感。僕はどうなるのだろうか?

数ヶ月後、同じ小児科で知り合い、入院生活を共にしていたB子ちゃんが退院した。そのB子ちゃんが自宅で療養中、心臓発作で亡くなった。その時は自宅で一人だったという。僕はB子ちゃんが好きだった。B子ちゃんも僕に好意を寄せてくれていた。また一人、大切な人を失った。何もしてあげられないという虚しさだけが募り、涙が溢れた。その時、僕は誓った。自分がA君とB子ちゃんの分まで生きよう。それから「生きていく」ということに対して、漠然とだが考えるようになった。

入院から1年ほど経ったある日、母が別の病院に転院しよう言だした。僕は躊躇したが、転院する理由は何となく察した。僕は、親に言われた通り、別の病院へ転院することにした。
転院した日は12月で、髪がすっかり抜け落ちていた僕の頭には、冬の空気はとても冷たく感じた。

痛くて情けなくて

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Story2 生きること

1.いろいろな変化

転院はタイミングを見計らい、年明けからになった。16歳の冬。お正月は自宅で迎えることができた。でも、いつものお正月とは違う。父親がいない。父はある事情で家を出て行った。残された母、僕、妹の親子三人。母は女手ひとつで僕たち兄妹を育てなければならなくなった。僕は病気持ち、妹は受験生。大変だと思う。それでも、母はたくましく、僕と妹の背中を押し続けてくれた。

かれこれする間にお正月も過ぎ、入院当日を迎えた。転院先は専門病院で、充分な治療が受けられるという。入院手続きを済ませ、病室で荷をほどいていると、母が呼び出された。ほどなくして自分も呼ばれた。どうせ病状と治療の話に違いない。入院するたびにこれだ。もう聞くのもうんざりしていた。しかし、先生の口から出た言葉は思いがけないものだった。“骨髄移植”をするという。骨髄移植! 聞いたことがある。

先生は話を続けた。骨髄移植をしないと僕の病気は完治しないのだという。移植を受けるよう説得された。僕も母も即答した。答えはひとつ。それは“生きること”だ。

2.病院の中の学校

骨髄移植を受けるにあたって、すぐにできるものではないこと、移植にはリスクを伴うことも先生は併せて教えてくれた。骨髄には“型”というものがあり、それが自分の(骨髄の)型と一致しなければならない。一致する型はなかなか見つからないものらしい。ちなみに適合しやすいのは肉親のものだそうだ。先生は、事前に母と妹の骨髄が僕のそれと適合するかどうか調べてくれていた。残念ながら母妹のものとは合わなかった。残された道は、骨髄バンクのみとなった。

ドナー登録はすでに済ませてあるという。ただし、適合するドナーが見つかるまでには時間がかかることもあるらしい。数年待ち続けている人もいるそうだ。そのことを聞かされた母の心中は穏やかではなかっただろう。しかし、当の僕はというと、絶対見つかるという根拠のない自信があった。

ところで、この病院に来てびっくりしたことがある。ここには学校があるのだ。小・中学校が病院内に併設されている。入院していても学校に通える。以前、入院で学校生活を棒にふった僕にとっては何とも羨ましい話だ。病院の中の学校で勉強する子どもたちを目の当たりにして、先延ばしになっている高校受験への思いが再燃した。

3.良いこと、悪いこと

治療が始まった。まずは薬による治療から。以前から服用している薬だ。僕はこの薬が大嫌いだった。副作用で顔が丸くなってしまい、ニキビも酷くなる。それでも服用は休まず続けなければならない。

二週間ほどで服用は終わった。血液検査も概ね良好だ。入院生活もすぐに馴れ、友達もたくさんできた。特に仲の良い友達が三人。年齢も近く、お互い何でも話せる仲だった。

ある日、三人の内の一人が退院することになった。うれしい反面、ちょっとさびしい。通院の時には必ず見舞いに来てくれると約束して別れた。

それから間もなく、今度はもう一人の友達が体調を崩し、個室に移ることになった。自分の治療とも重なり、その友達と会えない日が続いた。二週間ほどの治療を終え、ようやくベッドから離れられるようになったので、ちょっと顔をのぞきに行ってみた。ところが、いるはずの友達が病室にいない。退院してしまったのだろうか? 挨拶もなしに? もしかすると!? いたたまれなくなって、ちょうどお見舞いに来ていた別の友達のお母さんにこっそり尋ねてみた。返ってきた答えは、まさに僕が想像していたとおりだった。二月末。春の気配を感じ始めたころの出来事だった。

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Story3 骨髄移植

1.思い

三月。今年も高校受験の願いは叶わなかった。

入院生活は単調なものだ。朝起きて熱体温を測る。食事の後に薬を飲む。午後もほぼ同じ。だから、周囲の変化には敏感になる。親の顔色、先生の態度、看護師の応対。仲の良い友達のことなら尚更だ。また一人、仲の良い友達が命を落としてしまった。僕は、絶対病気に打ち勝ち、友達の分までがんばって生きなければならないという思いを強くした。

転院して四ヶ月。先生から「ドナーが見つかったよ」と知らせがあった。僕も母も長期待機を覚悟していただけに、その朗報には拍子抜けした。喜びよりも驚きのほうが勝っていた。その日、母はとても上機嫌で帰って行ったのを覚えている。僕は天国の友達から「お前は生きろ」と言われているような気がしてならなかった。

後日、先生から話があると呼び出された。先生が言うには、非血縁者による移植はこの病院では受けられないらしい。別の病院を紹介すると言われた。もちろん、骨髄移植を受けられるのだからこちらに異存はない。その場で具体的な日取りも決まった。転院は五月の連休明け。転院すればすぐに移植が受けられるのだろうか。期待に胸が膨らむ。この先に待ち受ける試練など知らずに…。

お尻のトラブル、再び

2.訪問教育との出会い

五月の連休も過ぎ、闘病生活もひとつの山場を迎えようとしている。“骨髄移植”だ。転院先の病院は、がん治療に長けているという。転院当日、病院のロビーで待っていると、担当の看護師さんが迎えに来た。案内されたのは大部屋。病室には同じ病気で入院している子どもたちが大勢いた。それは今までの病院と変わらない。でも、今までとどこか様子が違う。皆、丸坊主なのだ。抗がん剤の副作用で髪の毛が抜け落ちるためだ。

入院してから数日後、医師でも看護師でもない人たちが数名、病室に入ってきた。その人たちは「おはよう」と挨拶をすると、「さあ、勉強の時間だよ」と言って、病室の子どもたちに食堂に来るように告げた。さっそく食堂に行ってみると、さきほどの人たちが教科書を開いて待っていた。これから授業が始まるという。この病院では訪問教育というものが行われているのだ。その人たちは養護学校の教職員だった。訪問教育のために週三回、養護学校から出向している。この間まで入院していた病院でも学校の授業は受けられたが、以前と違うのは、この訪問教育では高等教育まで受けられることだ。

訪問教育での高等教育を受けるためには、養護学校の高等部に編入する必要がある。そして、養護学校の高等部に編入するためには、当人が高校生でなければならない。中学は卒業したものの長引く治療のため高校未受験の僕は、当然のことながら高校生ではない。つまり、僕は編入することはできないし、授業を受けることもできないのだ。それは法的に決められていることだから仕方がない。それでも、高校の勉強がしたい。そんな思いから、僕は当時の東京都知事に宛てて手紙を書いた。「勉強がしたいです」と。すると、僕の願いは聞き届けられ、いくつかの手続きを経て、授業を受けられるようになった。本当にうれしかった。あのときの感動は今も忘れない。

続・恋の処方箋

3.骨髄移植

転院してから間もなく、担当医から今後の治療について説明を受けた。検査をして状態が良ければ骨髄移植をするという。早ければ五月末。僕も母も安堵した。しかし、先生の話はまだ終わっていない。骨髄移植のリスクについても説明があった。むしろ大事なのはそっちの方だ。そうと分かっていながらも移植が受けられるということに舞い上がってしまい、僕も母もほとんど耳に入らなかった。

しばらくして検査の結果が出た。移植は延期するという。わずかばかりだが、がんが再発していたのだ。追加で抗がん剤治療をすることになった。今後、経過を見ながら移植のチャンスを窺う。幸い経過は良好で、七月には移植ができることが決まった。

骨髄移植をするには、自分の血液細胞を全て殺してから行う。僕は移植の一ヶ月前から大量の抗がん剤と、全身に最大線量の放射線をかけて細胞を殺す治療をしていた。副作用はかなり酷かった。

移植当日、無菌室で先生が来るのを待っていた。先生が来た。「移植を始めるよ」と言って、ケースから取り出したのは普通の輸血パックだった。実はこれが骨髄移植なのだ。見た目は輸血のようでも、内容は全く異なる。移植は四時間ほどで終了した。

骨髄移植は移植後が一番大事なのだという。副作用に警戒しなければならないからだ。初めのうちは経過も順調で、二週間ほどで無菌室から出られ、一般の個室に移った。このまま順調にいくと思っていた矢先、高熱が出た。二日目には40℃まで上昇し、極度の腹痛と下痢、頭が割れるような頭痛、とてつもない寒気も起きた。咳も止まらない。解熱薬を使っても38℃までしか下がらない。そこから熱が高くなると悪寒がする。意識ももうろうとしてきた。それでも強く思い続けた。「絶対負けねぇ!」と。

僕は何型?

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Story4 第二のスタートライン

1.副作用

骨髄移植の副作用は、想像以上に辛いものだった。腹痛と下痢で苦しめられた。腹がよじれるとは、こういうことなのか。高熱が続き、咳も止まらない。鎮痛剤を打ったが、治まらない。仕方なく最後の手段として“モルヒネ”を打つことにした。モルヒネというのは、麻薬の一種だ。麻薬なんて打っても大丈夫なのだろうか。少しだけ不安になったが、医師が正しく使用すれば問題ないという。モルヒネを打ったおかげでお腹の痛みは引いた。しかし、熱は下がらず、咳も止まなかった。

そんな状態がしばらく続いたある日、激しく咳きこんだ。すると、体の中で何かが弾ける音がした。その瞬間、痛みが襲い、急に息苦しくなった。咳きこんだせいで肺が割れてしまったのだ。息苦しくなるのは、右肺に穴が開き、そこから空気が漏れてしまうためだという。これは「気胸」といって、移植後の副作用には珍しくないそうだ。右肺がしぼんでしまい、このままでは呼吸ができない。すぐさま酸素マスク、酸素テントが用意された。さらに緊急処置として、ドレーン※1を脇の下から差し込むことになった。差し込んだドレーンを肺の近くまで通し、肺にたまった空気を抜いて、呼吸をスムーズにさせるのだ。脇の下からドレーンを指し込んだときの痛みは耐え難かった。その代わり、痛みに耐えた分、呼吸は楽になり、咳も治まった。ただし、熱は依然として高いままで下がる気配を見せなかった。

※1 ドレーン:直径1センチ程のチューブ。肺と胸膜の間に突き刺し、機械的に中の空気を吸引し、肺を膨らませる。

ドレーン×ドレーン

2.満身創痍の身体

移植後、高熱が治まらない。その原因をつきとめるべく、大がかりな検査をすることにした。肺に直接カメラを入れ、肺の中に付着したと思われる菌を調べるというものだ。

この検査が、これまで受けてきたものの中で一番辛かった。検査をしている間は息苦しいし、カメラを挿入するときの痛みは尋常ではなかった。しかし、これまでにないほどの痛みに耐えたわりには、原因を究明するには至らなかった。その間も高熱は続く。

それでも諦めずに、再度同じ検査をすることにした。もう一回だけ、あの痛みに堪えてみよう。覚悟を決めた二回目の検査で、ようやく原因がわかった。高熱の原因は、肺に付着したカビ菌のせいだった。このカビ菌については、移植前の説明でも聞いていた。肺に付着すると、肺炎を引き起こす危険があるという。今の症状がまさにそれに近かった。肺炎の引き起こす一歩手前だったのだ。

原因がわかり、薬を投与し始めてからは熱も徐々に下がり、意識も大分はっきりしてきた。しぼんだ右肺も時期に戻ると、医師は言う。これからは快方に向かって行くだけだ。気がつけば、ベッドの脇には点滴棒が2本。そこに計10個の点滴ポンプが備え付けてある。

副作用の苦しみは、まさに闘いだった。僕の身体は満身創痍。元気だったころ、70kgあった体重は49kgにまで落ちていた。ラグビーで鍛えた“大根”のような体格も、今はまるで“もやし”のよう。これでよくもったものだ。体力だけは自身があった。ラグビーで苦しい練習に耐え、培ってきたからだ。その体力が、自分の身を救ったのかもしれない。そう思った。

生きようとする力

3.第二のスタートライン

骨髄移植そのものは成功した。肺に付着したカビ菌も退治した。ただ、ドレーンを差し込めば膨らむはずの右肺は、今もしぼんだままだ。肺がもとどおりになるだけの回復力は、残っていなかったらしい。このままでは呼吸も満足にできないので、酸素マスクは絶えず付けていた。足腰の筋力もすっかり弱ってしまっているので、移動は車椅子。他人の手を借りなければ何もできない。それが歯がゆかった。

その後、回復するまでに時間がかかった。骨髄移植を受けてから240日余り、約8カ月入院を余儀なくされた。車椅子での生活も続いている。移植後の経過観察のことも考えると気が遠くなりそうだ。

それでも、迷いはなかった。くよくよしていても始まらない。この先、どうなるかなんて誰にもわからないのだから。病気は退治した。とにかく“今”を生きよう。リハビリもしなくては!

僕は今、第二の人生を歩むべく新たなスタートラインに立っている。そして、僕は僕の未来に向けて大きな一歩を踏み出した。

当たり前のことだけど

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